ことし1月、ここよりファミリーの折橋師が、ロサンゼルスに出張し、布教してきた記録を掲載します。
アメリカでの禅の歴史と、食についてのレポートをご覧ください。

日本式寺院の歴史

1922年、リトルトーキョーのすぐ近くに建立された『ロサンゼルス禅宗寺』は北米における最初の曹洞宗寺院であり、ロサンゼルスの成長する日系アメリカ人コミュニティに奉仕するために礒部芳泉師によって設立されました。
第2次世界大戦中、アメリカ西海岸の日本人は全員強制収容所に送られ、禅宗寺は一時閉鎖されました。
1945年5月に強制収容所から戻った鈴木大等師は寺を収容所から帰ってきた信者たちの一時的な避難所として機能させます。
1950 年代から 1960 年代にかけて、アメリカでは禅宗の人気が急上昇しました。
1967 年に禅センター ロサンゼルスを設立し、禅に関する多数の著書を執筆しました。片桐大仁師(1928-1990) は 1963 年から 1964 年まで禅宗寺の住職を務めた後、サンフランシスコに移り宗光寺と禅センター サンフランシスコで鈴木俊隆師を補佐しました。
片桐師は 1972 年にミネソタ禅センターの初代住職に就任しました。

日系移民と寺院の役割

黎明期

系移民の歴史は1832年に愛知県から江戸に向かう途中、およそ14か月の漂流後偶然ワシントン州にたどり着いた音吉(ジョン・マシュウ・オトソン)とされているが、これはモリソン号事件以前の話である当時のロシアとトルコで勃発したクリミア戦争が原因で偶然帰国した彼は後の黒船来航時、ペリーと通訳を務め、これが後に日本とイギリスの初の条約成功に至ることとなる。

初期

音吉の時代、西海岸はアメリカにとって原住民が住む未開の地であった。
転機が訪れたのは1848年にサンフランシスコで発見された金鉱脈、俗にいう「ゴールドラッシュ」である。
この巨大な金の卵は世界中から一攫千金を狙った男たちが押し寄せる。
同時に金を掘り当てるため大量の労働力が必要だったが最初に入植されたのは中国人で1852年時点でカリフォルニアに入植した移民67000人の内20000人以上が中国人であった。
彼らは1863年に行われた大陸横断鉄道の工事なども従事したがその後多くはサンフランシスコに定住し、チャイナタウンが形成される、
1870年代以降全米を覆った不況に白人たちは呑まれ大規模な排斥運動が起き、米政府は中国人移民の大規模受け入れを禁止する。
その後中国人の排斥運動も収まり、失った穴を埋めるようにやってきたのが日本人の海外出稼ぎ民である。

日系一世

野口英世が渡米したのが1900年、新渡戸稲造が全米で講義したのが1911年なので日系移民の排斥運動は知識人ではなく労働者であった。
特に西海岸における出稼ぎ民に対しては深刻で、今なお独自の言語、宗教、文化を持つ日本人は当時ことさら奇異に映ったのだろう。
彼等は農繁期の農場を転々とする不定住者で、全財産をブランケットに包みながら転々とする姿をみて「ブランケ担ぎ」と呼ばれた。
出稼ぎ目的で来た彼らにキリスト教的な『サンディブレイク』も『ワイフに仕事』も関係ない。
当時の白人は日本人を白い目で見ていたが定住する気もなく、稼ぐだけ稼いだら日本に帰りたい彼らは無我夢中で働き、外貨を獲得したい日本政府もこれを後押しした。

日本式寺院の建立

上記の通りロサンゼルス禅宗寺が建てられたのは1922年である。
この時代は日系一世に対しての排斥運動が起きており、生き抜くために日系のコミュニティや支援するための県人会が設立されていた。
寺社仏閣の役割は宿泊所や食事の提供といった地域コミュニティセンターの役割が強く、身寄りのない独身者を弔うなどの役割もあった。
また当時社会問題化していた賭博は貧困層の移民にとって深刻で、寺社仏閣で弔われた身寄りのない人間の多くは賭博で身を滅ぼした人だという。
1929年の経済恐慌では多くの失業者を出したが互助の考えを持つ日系人は互いに資金を出し合って「たのもし」という共同資本源を作り出すそれを順に使うことで不況を乗り越えたのだ。

世界大戦の衝撃

日系人の歴史にとって最悪の出来事は日本軍の真珠湾攻撃だろう。
元々アメリカ人にとっては資金10倍のロシアに勝利した異常国家日本である、全米はパニックを起こし、正義ではなく恐怖によって日系人は否応なしに「敵性外国人」となった。
1942年、ルーズベルト大統領は「大統領令9066号」に署名をする。
これは裁判や公聴会を開かずに特定の地域から日系人を排除する権限を陸軍に与える法律でそのわずか4日後、日本軍の潜水艦がサンタバーバラ沖の製油所を攻撃、そのわずか3日後に日系人は立ち退きを要請される。
家財を処分し行くあてのない日系人はリトルトーキョー付近の寺や教会に身を寄せる、だが到底すべてを受け入れることは出来ず、ほとんどの日系人はアメリカの各所に仮設された集合センターだ。
ロサンゼルスにおいてはサンタアニタ競馬場が使用され、環境は劣悪、大家族などには馬小屋がそのまま利用された。
この収容を最初に統括したのはアイゼンハワー大統領の弟であるミルトン・アイゼンハワーである。
彼は各州に日系人の受け入れを打診したが、快く受け入れたのはコロラド州知事のラルフ・カー知事だけである。
彼はコロラドに収容所が出来た際、数人を家事使用人として採用し、大学に進学させている。
アイゼンハワーはこの収容所政策に辟易し、わずか90日で辞職した、後任のマイヤーもこの強制収容所に疑問を持ち、人種差別を助長するとして大統領府に上申、1943年3月までに約3000人が収容所を出ている

1世と2世の価値観

元々出稼ぎ労働者として渡米した日系1世とは違い、アメリカ国内で生まれた日系2世にとっての生まれ故郷はアメリカである。
だが同時に親や日本学校で日本語を学んでいた彼らは内心でもそうだが外部から見られる目も異質であった。
折しも1940年代は日米関係が最悪の時代である。日系一世たちは子供たちの将来を守るため。
「自分は日本人だが子供の国はアメリカ」の立場をとった。
従軍した当時の日系二世にとっての日米戦争とは「少しでも早く、大きな戦果を上げ自分や自分の親兄弟、そして後の子供たちを守ること」である。
余談だが第100隊において、当時の陸軍マニュアルで16秒が合格点の重機関銃の組み立てという課題に対し、日系人数名は5秒という破格のスコアを叩き出した。
いかに死に物狂いだったかがよくわかるだろう。。

戦後と日系人が求めたもの

大戦中の日系人部隊の話はあまりに長く、壮絶なため割愛するが、二世兵士の奮迅は戦後トルーマン大統領の感謝状と演説によって改めて全米に知れ渡る。
この時大統領は「諸君は敵だけではなく偏見とも戦い、勝ったのだ」と演説した。
世界大戦中、日系人部隊である第100大隊と第442部隊が獲得した個人的勲章は18143個
これは同規模、同従軍期間において米軍史上最も多くの勲章を得た部隊であり、最も多くの犠牲者を出した部隊でもある。
戦後の日系人にとって最大のミッションは高齢化した日系一世の帰化権確保である。
日系二世を中心に設立されたJACLのロビー活動は無事実り、1952年に移民法は改正される。
偶然だがこの年は日米安保条約が発効された年でもある。
これら全ての問題が解決したのは1980年代のロナルド・レーガン時代であり、新たな時代と言われるのは90年代のクリントン時代だろう。
1988年、当時のロナルド・レーガン大統領は日系一世、並びに二世に対して正式謝罪文章と1人当たり2万ドル、計15億ドルの補償金を高齢者から順に授与。
また戦時中フレッド・トヨサブロー・コレマツが訴えた強制収容問題の裁判判決を無効とし、98年クリントン大統領はコレマツ氏にアメリカ市民としての最高勲章である大統領自由勲章を授与している。
1992年、禅宗寺から徒歩5分の所に全米日系人博物館が開館する。
日本人の殆どが知らない日系移民の歴史が紡いだこの場所は我々と現在アメリカで生活する全ての人が共有する歴史であり、2度と同じ過ちを繰り返さないための標として語り継がれていくことを願いたい。

JAPANHOUSEの役割と依頼内容

会場であるジャパンハウスは

『戦略的対外発信の強化に向けた取組の一環として、外務省が世界3都市(サンパウロ、ロサンゼルス、ロンドン)に設置した対外発信拠点です。これまで日本に興味のなかった人々も含め、幅広い層に向けて日本の多様な魅力、政策や取組を伝え、親日派・知日派の裾野を拡大していくことを目的としています。』
(外務省HP引用)
とされ、簡単に言えば国主導の情報発信センターである。
伝統的な文化だけでなく、漫画やアニメをモチーフにした作品展なども企画され日本では発売していない書籍の閲覧も自由にできる。

依頼内容

現地住民に対して禅と精進料理の文化を実食体験含め紹介してほしい
参加人数 120人(定員30名 午前午後2回 2日間)

詳細

・ジャパンハウス=外務省が主催の催し
・最初に日本での修行生活の説明(映像と質疑応答)を行いその後テーブルに衣を着た僧侶が料理を運び食前に『五観の偈』を唱える
・食事中は黙食で食後法話と質疑応答
・法話と質問はすべて英語
・食器は応量器を模した器

仕込み会場

ロサンゼルス禅宗寺

現地スタッフ

合計5人

当日の流れと感想

前提条件
・業務用冷蔵庫 基本調理器具 4口コンロ 

前日
・前日に近隣のスーパーで買い出しと仕込みを済ましスタッフとして協力してくれる僧侶にブリーフィング
(ある程度の規模のイベントは近隣寺院からスタッフとして集まってくれる)
 ・前日と当日の仕込みおよび直前の盛り付けや運搬の流れの確認
 ・当日完成品の『常温の待機時間の確認』
  (これをしておかないと食中毒の危険性が跳ね上がる)
 ・食材の運搬ルート確認

当日
・会場で使える調理器具の確認
・会場のテーブルの配置確認
・運搬方法の確認
(基本的にある程度大人数の場合 1人前×複数より1品×人数分を複数回の方が楽)
  ・基本的な流れとして調理の順番は
 1保温が出来るもの(ご飯ものなど)
 2冷たいもので作り置きできるもの
 3加熱調理品で汁気のあるもの(シチューや煮物)
 4加熱調理品で食感が大事なもの(揚げものや炒め物)
 5冷たいもので常温で質が変わるもの(アイスなど)

になる、そのため盛り付けと運搬の順番もこの順番で行えば失敗しない

参加者の感想と質問の内容

最も多かったのは料理のレシピなどだが、印象的なものは遺伝子的な嗜好である
2024年現在、アメリカにおける日系人は5世であり参加していた日系人の殆どがハーフやクォーターであった。
当然食生活はアメリカンスタイルなのだが、おそらく初めて食べたであろう海苔の混ぜご飯を食べて『懐かしい』と感想を漏らしたのだ
現地駐在の住職にその話をすると、これはよくあることのようで、曰く『思考も話す言葉もアメリカ人、だが口の中は日本人』らしい
1世から現在に至るまで筆舌に尽くしがたい彼らの紡いだ歴史は時に時代に翻弄され、時に命がけで抵抗しそれでも尚どこかで『日本人』というものは残っている

以下質問
修行僧は普段このような食事をしているのか?(アフリカ系)
この食器はなぜこのような形をしているのか?(現地起業家)
修行僧の1日のスケジュールは?(駐米大使館職員)
この料理の衣はなんの材料を使っているのか?(ヒスパニック系)

料理内容
浅炊きした海苔の混ぜご飯
けんちん汁
揚げ茄子の絡めダレ
冷ややっこと味噌だれ
漬物

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