そうだ、坐禅行こう

私は最近、少し仕事が立て込んでいた。
好きな仕事をしているつもりでも、やるべきことが重なってくると、徐々に心が荒んでくる。
わがドラゴンズも、いっこうに調子が上がってこない。
このままでは、日常生活に支障が出ると感じ、どうにかしなければ、と思っていたところ、ここよりファミリーの藤井さんから「外国人向けに坐禅指導をしているのですが、取材しに来ませんか」というお誘いを受けた。

私の心に葛藤と煩悩が生まれる。
葛「忙しくて、いつ記事にできるかわからないのに、気軽に参加できないよ」
煩「坐禅を習えば、少し心が安らぐかもしれないよ」
坐禅を行う動機として、果たして良いのか悪いのかわからないが、私は「迷ったときはワクワクする方を選べ」という悟空方式を採用し、坐禅指導を受けることにした。
自分の心と、向き合うために。



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「禅」とは

今回の会場は、門前仲町の臨済宗寺院、陽岳寺。藤井さんと同じ、ここよりファミリーである向井さんが副住職を務める禅寺である。
到着したら、既に外国のお客様がおいでになっていた。「禅を知りたくてやってきた」のだという。さらに「日本の庭にも興味があり、禅を通じて日本の精神性について学びたい」と、なかなかのことを言い出した。
2時間の坐禅指導で、この高いハードルを越えることなどできるのだろうか。
私の心配をよそに、藤井さんはソフトに語り始めた。

「禅のお坊さんは、庭をデザインすることなども多かったのです」
「安らかさ、穏やかさ、静けさなども、禅を感じるひとつ」
「このように、空間や、まわりにあるひとつひとつのものを大事にすることも、禅において大切なことです」

浄土宗僧侶である私の心に、禅の教えがスッと入り込んできた。
なるほど。日本人の心と、お庭などの環境と、禅は結びついているのだな…。
僧侶でありながら、あまり「禅」に触れてこなかったことを「もったいなかったな」と感じているうちに、指導は始まった。

「作法」を行う

坐禅の前に、まず「作法」を行う。
作法は、身体、心、呼吸を整えるもの。「整えなければならない」と思ってやることではなく、「やることで、勝手に整っていくもの」なのだという。

その場で足踏みをしながら、深く息を吸って、吐く。
自分の足で、床を踏むことを意識する。
普段、何の気なしに、足を使って歩いているが、今、その自分の足が、しっかりと本堂の床のことを感じている。
何かの目的を目指して行うのではなく、穏やかでいることを積み重ねていく。

まだ坐禅を行っている訳ではないのだが、私はすでに、「今日、ここに来てよかった」と感じていた。
自分が何を「忙しい」と感じているか。自分が欲していることは何か。ドラゴンズは弱いけど、今のミスが将来の強さとなるのではないか。
私の葛藤も煩悩も、少しずつ軽くなっていく。
まるで、予定のない日の二度寝のように、心地よい感覚に包まれていく。



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いよいよ坐禅

最後に、いよいよ坐禅を組む。
正座や胡坐に慣れていない方は、椅子での坐禅指導を受けていた。「3点で自分の身体を支える」という部分がしっかりしていれば、椅子でも坐禅はできるらしい。

私は、僧侶であるにも関わらず、坐禅の形を整えることができなかった。どうしても膝が床につかず、「お尻の中心と両ひざ」の3点で身体を支えられない。
それでも、なんとなく格好をつけてしまい、そのままの態勢で、なんとなく坐禅指導を受けることになってしまった。プライドを捨てれば、椅子で指導を受けることができたのに。

座りながら、呼吸を繰り返しているうちに、坐禅指導は終わった。
椅子で指導を受けていた方が、こう質問した。「坐禅とはなんですか?」。
藤井さんは、一拍おいて、こう答えた。「情報をすべて受け入れ、自分でジャッジしないことが、坐禅です」。
坐禅していても、心が乱れることもあるし、集中できないこともある。
外の音が聞こえても、その音を「ジャマだ」と思うのではなく、受け容れる。
私は、自分が坐禅を組むことができないことを受け容れるべきだったのだ。

目的に向かうのではなく、日常を安らかに積み重ねる。その日常そのものが、禅なのだという。
最後に、「座って、目をつぶると眠たくなってしまうが、どうしたらよいのか」と聞かれた藤井さんは、「本当は、呼吸を整えながら、寝ないようにするべきなんでしょうが、眠たかったら少し寝てから続けても大丈夫ですよ」と仰られた。
あの『徒然草』に登場する、法然上人のエピソードと同じである。
「お念仏していると、どうしても眠たくなります。どうしたらよいでしょうか?」
「それなら、ひと眠りしてからお念仏すればよろしい」

禅も念仏も、行きつく先は同じなのかもしれない。
いや、目的に向かうのではなく、今を積み重ねることが禅ならば、「行きつく先」ではなく、お念仏を唱えるその瞬間を積み重ねることに功徳があるのかもしれない。
来ることを迷っていたのがウソのように、私の心は晴ればれとしていた。

今日から、ドラゴンズの勝敗に一喜一憂することはなくなるだろう。
まあ、たぶん、きっと。



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