仏教身体研究家 藤井隆英が説く【禅的智慧の泉】 第三回 科学と進化と仏法 藤井隆英 ここより

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仏教身体研究家 藤井隆英が説く【禅的智慧の泉】 第三回 科学と進化と仏法

心のコラム

藤井隆英

藤井隆英

曹洞宗

2021-9-24

仏教身体研究家 藤井隆英が説く【禅的智慧の泉】 第三回 科学と進化と仏法 -

現代は、いうまでもなく科学進化の時代です。

〇《科学》の時代とは
目に見える時間空間で起こりうる、もしくは研究により「わかったとされるものごと」を“信じ切る”ことで進んでいく営み。

〇《進化》の時代とは
科学的ものごとを基に、「明確な目標」を持って社会を進めようとする状態。

そして科学進化の延長線上に、これからの社会をどう構築していくかの目標が設けられています。

〇《仏法》は、この《科学》や《進化》とは、趣が異なる営みであり状態です。

仏法を学んでいくということは、仏法の延長線上に、これからの社会をどう構築していくかということを学んでいくことです。いわゆる仏法が満たされた社会を目指していくことです。

では、仏法が満たされた社会とは、どのようなものなのでしょうか。


仏法的な生き方

それを理解するため、まずは仏法的な生き方から説いていきます。

《仏法的な生き方》とは
・依存や強制によって決められるものでなく、慈しみ分かち合い軸により決めていく生き方。
・慈しみ分かち合いの種を育て“信じる”ことで、自然と露にされる意志や実践に寄り添い進む生き方。

さらにこの生き方の軸と実践意志は、内外への非差別と、本質的受容・共感への適切なビジョンと思惟からしか起こりません。

《仏法》とは、このような生き方になるために、体系的にまとめられた智慧なのです。


科学と進化の盲点

先ほど《科学》と《仏法》の“信じる”ものの違いを述べました。

〇《科学》が信じるものは、「目に見える、もしくはわかったとされるものごと」であり、《進化》は《科学》を基にした個人の状態・社会の営み。

〇《仏法》が信じるものは、「慈しみ分かち合いの種」であり、その源泉は「非差別と本質的受容・共感」。

「慈しみ分かち合いの種」は、「目に見える」ものでしょうか。
「非差別と本質的受容・共感」は、私が常に「わかって」できているものごとでしょうか。

もとより、「自分という存在」は、すべて目に見えてわかる存在でしょうか。そんなことはないと思います。


仏法に沿って生きる意義

〇《科学》に沿って生きるということは、自分のわかっている部分だけを生かして営むということ。それは制限した生き方。

〇《仏法》に沿って生きるということは、科学だけでは見えないものごとを、まるごと認めていく生き方。

目には見えない部分は、未だに科学では何も分かっていない「心」に繋がる部分。

「心」を大切に生きるということは、「わかった」を基にした杓子定規な生き方でなく、そこから漏れ落ちるものをも受容する、ハートウォーミング(心温か)な営みを行うということ。それが仏法的に生きるということであり、私の温かさから発し、社会が安らかさに満たされていくこととなるのです。

たまには科学的な思考や営みから離れ、仏法的な思考や営みをすることで、本質的で開放的な安らかさと、幸せに沿って生きる力を身につけていきませんか?



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