はき違えた「思いやり」と「慈悲」

人間が人間として成り立つための源泉が「思いやり」という営みです。
しかしながら、多くの方が、はき違えた「思いやり」を営んでいます。

〇教訓やお経に書いている「から」
〇このような思いやりをすればよいと学術的に言われている「から」
〇みんなが同じようにやっている「から」
これは本当の「思いやり」ではありません。

仏教語にて「思いやり」に近い意味と捉えられている言葉として「慈悲」があります。「思いやり」のはき違えと同様に、多くの方は「慈悲」もはき違えています。

本当の「慈悲」とは、必ずしも自分が感じている「慈悲」の概念に沿った想いや行為をすることではありません。

本来、慈悲の生まれる根本である、自らへの洞察のもといによる、
〇私と他者との境界や差別の減衰
〇私と他者が共に尊厳を持っていることの自覚
これらを伴っているのが本物の慈悲であり、それ以外ははき違えた慈悲なのです。そしてこの根本がなく、自分の感じたままの慈悲を進めることは、結果として残忍で冷酷な想いや行為となっていく可能性さえあるのです。

本当の「思いやり」ができる人とは

多くの方は、「思いやり」ができる人になりたいと思っています。でも、日々の生活で全然できていないと後悔している方も多いのではないでしょうか。

ここで大切なことをお伝えします。
【素晴らしい人間=「思いやり」ができる人ではない】ということです。

それよりも、『自分が思いやられる存在であることを、できるだけ感じようとし続けていること』の方が、本当の「思いやり」ができる人であるためには重要な事項です。

そして、思いやられる存在であることを自覚した上で、
〇私は楽を与えられる存在なのか。
〇苦を抜くことができる存在なのか。
を迷い問い続けていく者こそが、本当の「思いやり」ができる人なのです。

相手に楽を与えることはできるのか

本来、全てがお見通しな仏様でない限り、相手に直接楽を与えることなどできるわけがなく、まやかしでしかありません。

相手に楽を与えるべく、お見通しでない自分でもできることは、
〇相手との境界や差別を減衰するよう努めること
〇相手への尊敬、尊厳、敬虔意識を持ち続けること
それによってはじめて相手の苦が苦のまま安心に受け取られていきます。結果として相手のまるごとの心と身体から、まやかしでない楽な状態が沸いてくるのです。

すべての人間は相手のことのみならず自分さえも知らないのに、相手に「楽を与えますよ」なんてどうして言えるのでしょうか。

しかし、以下のように直接「楽を与えることができる」と言われている方はいます。
〇自らの利益の為、まやかしを分かりながら相手を利用している方
〇まやかしであるが何らかより与えられた「楽」の定義を信じ、気づかないまま定義づけされた「楽」を強要している方

利用や強要によって楽を与えるための想いや行為は、一見「思いやり」のようですが、本当の「思いやり」ではありません。

現代はまやかしの「与楽」と「思いやり」に満ち溢れています。
〇あなたが行っている「思いやり」は本当に相手にとって「楽」な状態を現すものですか?
〇あなたが受けている「思いやり」は本当に自分にとっての「楽」を生み出すものですか?
〇その「思いやり」はまやかしではないですか?

これらの問い自体が本当の「思いやり」を築く一歩となるのです。

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