東京・府中の天台宗寺院、普賢寺(ふげんじ)では、お寺の本来の御本尊として、新たに普賢菩薩像を造立するプロジェクトが進められています。

前回は、普賢寺住職を務める小野常寛(おの・じょうかん)さんと、大学院で普賢菩薩について学んでいる都筑玄祥(つづき・げんしょう)さんのお二人に、現代に仏像を造立する意味についてたっぷりとお聞きしました。

前回記事はこちら↓

未来の国宝に向けて令和の仏像造立へ~普賢菩薩に託す思い~

仏像といえば、昔に造られた長い歴史のあるものというイメージが強いのではないでしょうか。今、この令和の時代に仏像を造ることには、どのような意味があるのでしょう。…

続く第2回では、普賢菩薩さまへの理解を深める第一歩として、仏教の基礎的な点をお二人の視点から語っていただきます!

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あらためて、「仏教」とは?

―普賢菩薩さまの詳しいお話に入っていく前に、そもそも「仏教とは何なのか」というところもお聞きしてよいでしょうか。
仏教には、修行をすることで迷いや苦しみのない悟りの境地を目指すものだというイメージや、一般の世界で生きている私たちの苦しみに対してのアドバイスが詰まったものだという印象を持っています。お二人は、「仏教とは何なのか」という問いに対してどのようにお考えでしょうか?

玄祥さん

我々が認識するあらゆるものには実体がないという「一切皆苦(いっさいかいく)」が、仏教の一番の根本原理だと思います。
悲しみや悩みも永続的に続くのではなく、いつの間にかうつろいでいって、だんだん変化していくものだということです。
悲しみや悩みがずっと続いているとしても、いつかは良いものに転じていくことがあるだろうと思うんです。
そういったところに則りながら、悲しみを抱えている方や信者さんに向き合うようにしています。

―同じく仏教の考え方として有名な「諸行無常(しょぎょうむじょう)」は、「永遠に変わらないものなどない、だから虚しい」という方向で語られることが多いと感じるのですが、「いつかはよいものに転じていく」という可能性も示してくれるものなのでしょうか。

玄祥さん

仏教が絶対的に悪いものとか絶対的によいものを定義するというよりは、現実的な悩みに対応するための実践行が仏教だというイメージでしょうか。

―前回も、普賢菩薩さまは「行(ぎょう)の菩薩」だというお話や、「普賢菩薩は、修行、実践、慈悲の守護者」というお話がありましたが、やはり“実践”がキーワードになるのですね。常寛さんはいかがでしょうか?

常寛さん

仏教とは何かという問いへの答えとしては、さきほどの「諸行無常」や、あらゆる物事はほかのものとの関わりから生じていて、単独で存在するものはないという「諸法無我(しょほうむが)」といった根本原理に行きつきます。
でも、その捉え方や実践の方法は、各宗派、各国の仏教によって大きく変わってくるところがありますね。

私個人としては、仏教は「命のあり方を探索する羅針盤」だと感じています。
修行って、どうしても厳しい、苦しい、辛いといったイメージがあると思うんですけども、自分自身が四度加行(しどけぎょう)という密教の修行や、比叡山の回峰行や、護摩などをしていると、「ありがたいな」と思うことが多々あるんですね。
そう思うのは、自分の命がどう繋がっているのか、どういう存在であるかということに向き合えているからだと思っています。
それを究極までぐっと突き詰めるのが修行なのかなと。
そこには「諸行無常」も「諸法無我」も含まれています。
この命、人生、考え方、感情、認識といったものが何なのかということを、色々な角度で教えてくださるのが仏教かなと思っています。
悲しいものも、嬉しいものも、楽しいものも、辛いものもひっくるめて、命や人生を教えてくださるのが僕にとっての仏教ですね。

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ブッダ=お釈迦さま一人だけではない

―「仏教」に続いて、「仏(ブッダ)」についてもお聞きしたく思います。「ブッダ」というのは仏教の開祖のお釈迦さまの個人名ではなく、悟りを開いた人がブッダと呼ばれるそうですね。「お釈迦さまだけでなく、他の人もブッダになれる可能性がある」という捉え方で合っていますでしょうか?

玄祥さん

どういうものが悟れるのかという話は、仏教の歴史の中でも問題にされてきた部分です。
日本の仏教では最終的に、全ての衆生(しゅじょう)、つまり我々はことごとく仏のような素質「仏性(ぶっしょう)」を持っているという話に落ち着きました。

―お坊さんではない一般の人も含め、みんな仏になる種のようなものを持っているということですね。

玄祥さん

ただ、仏の要素を持ちながらも、現実として我々は悩みを抱くという側面もあります。
そこからどうやって悟りと呼ばれる安定した状態を目指すのかという課題がありますね。

―悟りという状態に達するまでにはいくつかの段階があって、一生かかっても到達できないほどの長い時間がかかるという教えもあると聞きます。仏教を実践していると、その境地に少しずつ近づいていくと考えてよいのでしょうか?

玄祥さん

自分のために行う「自利(じり)」の修行や、他の人のために行う「利他(りた)」の善行という二つの側面の行をみんなが進めていけば、全体が良い方に動いていくという教えがあります。
それが仏に向かっての着実な一歩ずつの歩みになるのだと思います。

―悟りの世界ははるか遠くにあるとしても、その一歩を進める行いにはやはり意味があるのですね。

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「菩薩」の存在の大きさ

常寛さん

大乗仏教では、悟りに向かって修行をしている「菩薩(ぼさつ)」の存在が大きいんです。
原始仏教や、タイやスリランカなどの東南アジアの仏教では、修行者として最高の状態である「阿羅漢果(あらかんか)」を目指すんですね。
日本などの国に広まっている大乗仏教になると、そこから一歩進んで、私たちも仏(ブッダ)になれると考えるところが大きく違っています。

悟りたいというよりも、一歩ずつでもそこに近づければ、というイメージが大きいと思っていて。
ゆくゆくは如来(仏)になる菩薩が、僕らにとっての救いの存在なんですよね。
僕らも実は菩薩なんだと捉えることができれば、いつかはその位置になれるかな、来来来来……来世ぐらいになれたらいいな、といったイメージを持っています。
修行すればするほど、その乗り物に乗っている実感が湧いてきたり、いつかは仏となるその乗り物に乗っているから安心できたりするという感覚を持っています。
悟りというよりも、僕らも観音さんとか普賢さんと同じような菩薩に少しでも近い存在になれることができれば……というイメージでしょうか。

阿含経典という初期の仏教の経典を読むと、仏になるというのはもう相当なことなんです。
基本的に、一つの世界には一人の仏だけがいるとされているので、僕らが仏になるのはちょっと無理だろうという気持ちを抱いたりもします。

今生(こんじょう。輪廻転生における今の人生)で阿羅漢になるのではなく、何回も何回も輪廻しながら菩薩が仏になっていくというところが、僕らにとってのよりどころになるんじゃないかと思っています。
一般の方にも「実はみなさんも菩薩ですよ」と言うことができることも含めて、僕らにとってとても大きな存在だなと思います。

―そして普賢菩薩さまも、その菩薩のお一人なんですね。「菩薩」という存在があることで、より長い射程でゆったりと歩み続けられるような部分もあるのでしょうか。それでは次回はいよいよ、普賢菩薩さまがどんな方なのかお聞きしていきたく思います!

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