
友引とは何か ?|迷信のはじまり
「友引だから葬儀は避けたほうがよい」と、いまも多くの場面で語られます。
しかし、そもそも友引とは何なのでしょうか。
友引は、中国から伝わった暦注「六曜」の一つにすぎません。
本来は「共引」とも書き、「勝負なし」という意味をもつ日でした。
ところが日本に広まる過程で、「友を引く」という語感だけが独り歩きし、「この日に葬儀をすると友人をあの世へ引いていく」といった迷信へと変化していったのです。
そこに仏教的な根拠はありません。
言葉の響きから生まれた、いわば“語呂合わせ”が、不安となって人びとの心に残ったにすぎないのです。
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「大安」でも不幸は起こるという事実
友引が「悪い日」とされる一方で、「大安」は「最良の日」と言われます。
しかし、大安の日が常に良い出来事ばかりをもたらすでしょうか。
現実の出来事を見れば、吉日とされる日に事故や災害が起こることもあります。
暦の善し悪しが、私たちの人生を決めているわけではないということは、日常の事実が静かに物語っています。
私たちのいのちは、蓮如上人が『白骨の御文章』で「われやさき、人やさき、きょうとも知らず、明日とも知らず」と言われるように、いつ尽きるか誰にもわかりません。
その姿を、仏教では「無常」と表します。
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無常とは、あきらめではない
「無常」と聞くと、「はかない」「むなしい」という響きを感じるかもしれません。
しかしお釈迦様が示された無常とは、決して悲観やあきらめではありません。
無常だからこそ、
限りあるいのちだからこそ、
今日という一日が、かけがえのない尊い日となるのです。
浄土真宗では、南無阿弥陀仏の念仏のなかに、無常を忘れ、いのちを当然のように明日へ延ばしてしまう私たちを呼び覚ます如来のよび声を聞かせていただきます。
「今日を大切に生きよ」とのはたらきに遇うとき、
暦の吉凶や方角の善悪は、もはや人生の中心ではなくなります。
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それでも友引を避ける現実について
実際の葬儀では、喪主やご遺族だけでなく、親族や世話役、葬儀社など多くの方々との相談で日程が決まります。
そのなかで「友引は避けましょう」という結論になることもあるでしょう。
それ自体を強く否定する必要はありません。
大切なのは、迷信に振り回されるのではなく、自らの姿勢を確かめることです。
私たちは、友引であってもなくても、必ず死を迎えます。
「きょうとも知らず、明日とも知らず」の無常の世に生きているのです。
その現実に目を向けたとき、
暦ではなく、いまここにある一日をどう生きるかが問われます。
親鸞聖人の戒め
このことについて、宗祖 親鸞聖人 は『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐」において、次のように詠まれています。
かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす『正像末和讃』「愚禿悲歎述懐」
吉日を選び、占いやまじないに頼る姿を、聖人は「かなしきかな」と歎かれました。
それは、人びとを責める言葉ではなく、本願のはたらきに目覚めてほしいという、深い慈悲の表れです。
恐れではなく、信心に立つ
友引という言葉におびえる必要はありません。
それよりも、無常のいのちを生きる私たちが、今日という一日をどう受けとめるかが大切です。
葬儀の日取りに正解はありません。
しかし、迷信に心を奪われるのではなく、如来のよび声に耳を澄ませること。
そこに、浄土真宗が大切にする生き方があります。
「ここより」読者の皆さまが、暦に揺れるのではなく、いま与えられている一日を確かに歩まれることを、念仏のうちに願っております。
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浄土真宗本願寺派長谷山宝性寺衆徒。立正大学仏教学部仏教文化学科卒業後、サラリーマンを経て出版業を営む。中央仏教学院を卒業後得度し、浄土真宗本願寺派の僧侶となり、翌年、教師となる。








