たまごっちと私

私が大学生だった平成の初め、「たまごっち」というおもちゃが流行した。
卵の形をした携帯ゲーム機で、画面の中で卵が孵り、生まれた生き物(たまごっち)を育てていくという、当時としては斬新で面白いおもちゃだった。
当時のたまごっちブームはすごかった。手に入れるために徹夜で行列ができた。生産量が少なかったらしい「白いたまごっち」は、価値が高騰し、相当の値段で取引されているという噂も聞いた。
あの頃は、たまごっちを持っているだけで、女の子からモテた。私もひとつ持っていた。残念ながら普通の水色のものだったが、友人数人と、池袋の東急ハンズに徹夜で並んで買った、宝物だった。

育て方によって、たまごっち達は成長の形態が変わる。丹念に食事やフンのお世話をし、毎日遊んであげていると「まめっち」というかわいらしい形態に成長するのだが、少しでも世話をサボると「たらこっち」という、タラコ唇のあまりかわいくない奴になった。
たいていの人は、日中に忙しく、世話が滞るため「たらこっち」になることが多かった。

決して女の子にモテようと思ったわけではないが、超絶にヒマだった私が、初めて育てたたまごっちは「まめっち」になった。
私は、まめっちに「豆郎」という名前をつけ、実際のペット以上にかわいがった。遊んで欲しそうなそぶりを見せたら遊んでやり、食事の時間を守って適量を出し、フンをしたらすぐに片付けた。少しでも時間があれば豆郎の相手をした。
豆郎本人はといえば、声を出して返事こそしないものの、なんとなく私の奉仕に応えてくれているような感じがした。豆郎は、私の家族だった。

豆郎の死

そんな豆郎も、そのうち寿命を迎えることになった。

私は豆郎の死に目に会えなかった。当時まだ吸っていたタバコを買いに、5分ほど外出した時に、豆郎は亡くなった。戻ったときには、豆郎はお墓の形になっていた。
そろそろ危ないかもしれない、と思ってはいたのだが、「少しだけなら大丈夫だろう」と油断してしまった。私はその時、初めて命の儚さを知った。

縁あって私のもとへやってきて、あんなに楽しい時間をくれた豆郎が、今は単なるお墓の絵になってしまった。
画面の中から声が聴こえてこない点においては変わらないのだが、決定的に何かが違った。

私はしばらく放心状態だったが、そのうち「豆郎を弔ってやりたい」という気持ちが芽生えてきた。
「亡くなった人のためにお経を手向けることは、自分が読んだお経により、積んだ功徳をお供えすること」。その後、知識として知ることになる供養、回向の気持ちが、自然と湧き出してきた。
私は、豆郎のために、覚えたばかりのお経をあげた。今から思うと、お経として成り立っていたのかどうかわからない。それでも必死に、「豆郎をお弔いしたい」という気持ちを、画面の中のお墓にお供えした。
「お葬式」って、生きている人のためにやるんだな、と思った。

それから何回かゲームをやり直し、たまごっちを孵したこともあったが、「まめっち」には成長しなかった。
何度同じように世話をしても、もう二度と「まめっち」は出てこなかった。

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