「信じる」の扱いに迷う日本人

「信じる」ことは、人間として生きていく上での必須事項です。「信じる」を大切にすることは、幸せに生きる為の大切な要素です。しかし今、日本人の多くの方は「信じる」ことの扱い方に迷っているように感じます。

それには以下のような要因があると推測されます。

日本の経済停滞や政治不信と相まって、嘘をついてでも自分や所属団体にとってよい状態を得ようと考える方が増え、結果互いに信用できづらく疑心暗鬼を持ちがちで、誰を「信じたら」よいのかわからないこと。

コロナ禍からの社会情勢の急激な変化にて、今まで常識だと「信じて」いたものが常識ではなかったと気づき、どのような情報や生き方を「信じたら」よいのかわからないこと。

問題になっている新興宗教などにて、「信じる」ことで財産がなくなり、それまで大切だった縁が崩され、多大な迷惑や不利益を起こすなど、個人や社会にとって良くない状態になる事実を知るにつけ、「信じる」こと自体を躊躇してしまうこと。

辞書に書かれる「信じる」の考察

「信じる」ことを考える手始めに、辞書に書かれる内容を紹介いたします。
※明鏡国語辞典より


少しの疑いも持たずにそのことが本当であると思う。
「神は存在すると信じる」
「従来の学説を信じて疑わない」


自分の考えや判断が確実であると思う。確信する。
「僕は彼がきっと来ると固く信じている」


相手のことばや人柄に偽りがないものと思う。信用する。信頼する。
「もう誰も信じられない」


信仰する。信心する。〜に帰依きえする。
「仏教を篤く信じる」

各意味を考察いたしますと


《限定された論理世界》で真実とされているものに準じて受動的に疑わないということ。
*過信すると無批判に通じる。⇒疑うと批判に転じやすい。


《自分から発する》能動さに準じた疑いなき想い。
*過信すると強情に通じる。⇒疑うと迷走に転じやすい。


《他者との関係》に準じた受容によって肯定認知するもの。
*過信すると依存に通じる。⇒疑うと離反に転じやすい。


《神仏との縁》に準じた誓願的生き方を基盤にしたもの。
*過信すると盲従に通じる。⇒疑うと懐疑に転じやすい。

「信心」とは

仏教に「信心」という言葉があります。これは辞書に書かれる「信じる」の④を仏語にしたものです。

「信心」を辞書で引くと『仏の「誓願」に呼び覚まされた「真実」の目覚めを伴った信じる心』とあります。

ここで「誓願」「真実」という言葉の強さに躊躇してしまい、以下のように思われ怖がる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「約束事を強固に誓わされ、嫌なことでもやらなければいけなくなる」

「深入りすると、間違ったものも真実だと思わされる」

これらは、仏教における本質的な「信じる心」の意味を捉えられないことで思ってしまうことなのです。

仏教のとらえる「真実の信心」

では仏教のとらえる「真実の信心」とはなんでしょうか。それは『自らが、仏様の誓願である“すべての存在を救いたいと願うこと”から発する信じる心』です。その意識による信心からは、過信にて通じる無批判や強情、依存は起こりません。
代わりに

尊敬:共有し誇りに想う事。
尊厳:権利を大切にし見守ること。
敬虔:奇跡の存在として崇めながら寄り添うこと。

これが信心(信仰的に信じること)の基盤意識であり、その上で初めて誓願(すべての存在を救いたいと願う)が意味を持つのです。また、この基盤意識の原点は、“わたし“への尊敬・尊厳・敬虔です。

「自己存在感」の勧め

最近「自己肯定感」が大切と言われております。これはどちらかというと社会からどう肯定されるかの指標ととらえられています。

「真実の信心」からの「自己肯定感」は、“わたし“への尊敬・尊厳・敬虔が加わることで、社会だけに収まらない「自己存在感(わたしがわたしとしてこの世界から許された存在であることを無為に感じること)」という様相となります。

「自己存在感」による「わたし」への信心基盤意識が育つことで、はじめて誓願を基にした、本質的な幸福や平和、他者や社会への安寧に寄与できる存在となるのです。

「信心」嘘と真実の違い

いくつか「真実の信心」でなく「嘘の信心」となりえる「信じる」場面を示させていただきます。

相手が、何か悪さをしたかもしれないときに「信じる」ことは、自らの心に疑いを作ることとなり、真実の信心ではありません。

相手を盲目的に疑わず、言動や行動を全て鵜呑みにしているときに「信じる」ことは、依存となり、真実の信心ではありません。

神仏に頼めば幸せがくると願って「信じる」ことは、時にご都合主義となり、真実の信心から離れてしまいます。

さて、問題になっている新興宗教に入信されている方は、わたしへの尊敬・尊厳・敬虔を伴った「真実の信心」を有しているでしょうか。「嘘の信心」を信じているのでしょうか。

「信じる」を問う

『星の子』という、“あやしい宗教”の二世として葛藤する姿を描いた、芦田愛菜さん主演映画があります。最後に、この完成報告イベントの中で、彼女が「信じる」について質問されたときに語った内容を紹介いたします。素晴らしい洞察です。解説はいたしません。読まれた方でお問いくださいませ。

「よく、その人のことを信じようと思いますという⾔葉を使うことがありますが、それってどういう意味なんだろうってと考えました。それは、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とするその人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなと感じて。だから人は、裏切られたとか、期待していたのにと感じてしまう。でもその人が裏切ったわけではなく、その人の⾒えなかった部分が⾒えただけであって、その⾒えなかった部分が⾒えたときに、あっ、それもその人なんだと受け止められる揺るがない自分がいるか、信じられるかということなのかなと思ったんです。けれど、揺るがない自分の軸を持つのってすごく難しく不安になったりします。だからこそ、人は『信じる』と口に出して、成功した自分とか理想の人物像にすがりたいんじゃないかと思いました」

わたしはすべての人が、互いに尊敬・尊厳・敬虔を伴った「信じる心」を持つ存在となることで、憎しみ合いのない安らかな世界になっていくと、これまでも、そしてこれからも「信じ」、そのためにできることを日々問い実践し続けます。

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