一番大きな選択とは

私たちは日々の生活で多くの物事を選択しています。
1番大きな選択は、生きていくという選択。

そこから段々と細に入り、日々生活していくほとんどの行動が、選択によりなされているといえます。

しかしその大多数は自らの本意から選択しているようにみえて、人間関係・環境・社会・知識・文化など自分以外の物事による、いわゆる自分では思い通りにならない状況に影響されている選択です。

それは無意識的になされるものもあり、自身が意識的選択をしていると思いながら実際は大いに影響を受けているものもあります。

自分らしい選択とは

では「自分らしく」選択して生きるとはどのような状態でしょうか。
それは決して人間関係・環境・社会・知識・文化を減らしていくことではありません。

現代は、グローバルという単一共同体という名の下に、これらの多様性を減衰していく傾向にあるように感じます。
この考えに沿っていくということは、自ら、そして社会における「自分らしく」の幅を狭くしていくことなのです。

「選択」というテーマに際し、禅のとらえる悟りにいたる10の段階を、牛と牧人との関係を題材にした10枚の図と詩で表した「十牛図」の中の「第二 見跡」「序」に記されている内容の一部を解説させていただきます。

文頭にこのようなことが書かれています。
【経に依って義を解し、教えを閲して跡を知る】
(きょうによってぎをかいし、おしえをけみしてあとをしる)

◯現代語訳(藤井訳)
お経など文字に記されたものをうのみにして、
仏法のあらましを理解したと捉えていること。
師や権威ある者から教えられたことに依存して、
仏法が身についたと捉えていること。

そして最後の節にはこのようなことが書かれています。

【未だこの門に入らざれば権に見跡と為す】
(いまだこのもんにいらざればかりにけんせきとなす)

◯現代語訳(藤井訳)
うのみや依存にて見知ったものが、
本来の自分の発現に大切な真実だと捉えているならば、
未だ仏法の門をくぐるまでもいかず、
門の先の地面についたくぐった者の足跡を、
門の手前でたたずみ見つけたに過ぎないのです。

こちらに書かれているのは仏法についてですが、日々にて「わたしが自分」で選択したものは、うのみや依存による選択となっていませんでしょうか。

自らうのみや依存を選択する人々

現代は、集合意識や思考放棄等により、自らうのみや依存側を選択する方も多いように感じます。

その方が「楽」だから?

しかしその選択は、決してあなたの本質的幸せを築きませんし安らぎともなりません。
それ以前にうのみや依存による選択は「わたしが自分」で生きていくことの放棄です。
より善き、幸せで、安らいだ人生を送ろうとすること以前に、あなたはあなたで生きていないのです。

あたかも十牛図に書かれているように、うのみや依存にて見知ったものが、本来の自分の発現に大切な真実だと捉えているならば「幸せ」とカテゴライズされ枠に入った幸せを「これが本当の幸せだ」と自ら枠にはめ集合意識によって一時的に不安解消しているだけなのです。

もしくはそれまでも気づかず、環境による選択によって「幸せ」と思いこまされているだけなのです。

それは幸せを選択する以前の、本質的な幸せ自体を知らない、というより自ら知ろうとしていないことと同意なのです。

自分らしく生きるとは

では「自分らしく」選択して生きるためにはどうしていったらよいのでしょうか。

それは人間関係・環境・社会・知識・文化に尊厳を持ち尊重することと、「わたしが自分」の範囲を広くし他との境界を減衰していくことです。結果として外なる多様性の豊かさと、内なる多様性の深さを同時に気づき認められていきます。

仏法特に禅は、この広く減衰していくことのいざないを身体と心の両面より修することができる叡智が満載です。

すなわち「自分が自分でない」ことを深く認めていくことで生まれる「自分らしさ」が仏法の基礎なのです。

多くの方が善き選択を有し、個人が、そして社会が安寧になっていくことを願います。

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