日本代表の軌跡
2022 FIFAワールドカップ。日本代表はベスト16で敗退しました。
4年前、西野監督の後を受けた森保一監督が、就任当初から掲げてきた、「W杯ベスト8」の夢は、今回は叶えることができませんでした。
しかし、ご存知のように、グループリーグでは、かつての優勝国であるドイツやスペインを破るなど、着実な進歩をみせてくれました。
「ドーハの悲劇」から29年。代表全員がJリーガーだった(ゴンと吉田はJFLでしたっけ)あの頃がウソのように、日本代表は、海外チームで活躍する選手ばかりになりました。
かつてあった「海外組」と「国内組」の軋轢も、遠い昔のできごとのようです。
この29年の間には、「マイアミの奇跡」「ジョホールバルの歓喜」や、6度のW杯出場、オリンピックでの健闘もありました。
「アイコンタクト」「ゾーンプレス」「フラットスリー」「黄金の中盤」「考えて走る」「ショートパス」「デュエル」「縦への速さ」などを経て、ACミランやマンチェスターUなど、ビッグクラブに移籍する選手も生まれるようになりました。
一方で、「サンドニの悲劇」など、つまずきも多々ありました。「史上最強」とも言われた、ジーコ監督率いる2006年ドイツW杯の代表チームは、あえなくグループリーグで散り、代表の象徴だった中田英寿は、その大会限りで引退。「黄金世代」の円熟期は、世界の壁にはじき返されてしまいました。
W杯でも、大会ごとにグループリーグ敗退とベスト16進出を繰り返し、一進一退の中、日本代表は成長してきました。
もう「ドーハの奇跡」「ドーハの歓喜」ではない
29年前の「ドーハの悲劇」に対し、今回のドイツやスペイン戦での勝利のことが「ドーハの奇跡」「ドーハの歓喜」と報道されています。
「ドーハの悲劇」を目撃し、現在に至るまでの一進一退を、ともに歩んできたメディアやサポーターが、かつての「悲劇」を振り払いたいのでしょう。
あるいは、当事者だった森保監督自身も、そうなのかもしれません。
その気持ちは痛いほどわかります。私もかつて、「ドーハの悲劇」を目撃し、「外れるのはカズ、三浦カズ」に驚き、鈴木隆行のつま先ゴールに震え、「急にボールが来たから」に落胆し、駒野の肩を抱く松井大輔の姿に涙し、前回のベルギー戦のラストプレイに天を仰ぐなど、日本サッカーの歴史の激流の中を、代表チームとともに歩んできたファンだからです。
今回、ドイツ戦の勝利は「奇跡」「歓喜」でよいと思います。かつて悲劇に見舞われた地で、格上だと思われていたチームに逆転で勝利したのですから。
そういう意味では、スペイン戦に勝利し、グループリーグを突破したことまでを「奇跡」「歓喜」としてもよいでしょう。スペインもドイツもW杯優勝経験国ですし、そのグループを突破することができたのは、喜ぶべきことだからです。
しかし、いつまでもそこに囚われていても、仕方がないのです。
仏教では、「物事に心がとらわれ、修行の障害になってしまうこと」を「執着」といいます。
「ドーハの悲劇」にとらわれるあまり、いつまでも日本が格上国に勝つことを「奇跡」「歓喜」という言葉で表現しなくてはならない。
これは、私たちサポーターがとらわれている「執着」なのではないでしょうか。
「ドーハの〇〇」は、今回までにしましょう。
だって次回からは、日本が勝っても、少しもおかしくないんですから。
勝っても「奇跡」ではないし、負けても「悲劇」ではない。
日本はようやく、その位置まできたんです。
「よい執着」はもっていい
クロアチア戦で敗れたあと、テレビ中継で、岡田武史元日本監督が、こう仰っていました。
「ベスト8に行くには、少し執着心が足りなかったのかもしれないですね…」
「あれ?」と思われるかもしれません。「執着」って悪いことではないの?と。
しかし、かのダライ・ラマはこう仰っています。
「よい執着はもってもいい。生きる楽しみ、支えになるのなら」
「執着」がよくないのは、その心を持つことでそれがいつしか「苦しみ」となり、その場にとらわれ、「呪縛」となってしまうからです。
日本代表も「ドーハの〇〇」といっているうちは、今後も、強豪国と対戦するときに、「勝ったら奇跡」という入り口から入らなければなりません。
日本代表が持つべきなのは、「勝利への執着心」だと岡田さんは仰っています。
それは「苦しみ」でも「呪縛」でもなく、「希望」であり「チーム愛」なのです。
「執着」が強すぎて、大きくなってしまったものを「煩悩」といいます。
前向きな心と結びついたら、よい結果となることもありますが、多くは「苦しみ」につながってしまいます。
だからといって、すべての執着をなくしてもいけないのです。
「成果をあげたい」「夢を叶えたい」「愛する人を見つけたい」という執着までなくしてしまったら、生きる希望がなくなってしまいます。
「ドーハの〇〇」を起こしてやる、ではなく、「今度は、石にかじりついてもPKを決めてやる」。あるいは「延長にせず、90分で勝負を決めてやる」という心が大事だと、岡田さんは言っているのだと思います。
全てを捨てて修行しているようにみえる僧侶も、「悟り」への道を前進しています。
前に向かう意思を捨てず、心をひとつにすること。
そして、過去を捨てるのではなく、過去から未来へとつながっていく、すべてのサッカー人との「共生(ともいき)」の中で強くなってきたことを忘れず、次へと歩んでいくこと。
それが、これからの日本サッカーにとって、大切なのではないでしょうか。
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立正大学仏教学部卒業。東京仏教学院卒業。浄土真宗本願寺派僧侶。
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