築地本願寺GINZAサロンとは

築地本願寺の安永宗務庁が、布教の場を広げるべく、銀座という利便性の高い場所に創設した「サテライトテンプル」と呼ばれるスペースです。

より多くの人の、悩みや迷い、ストレスを少しでも解消し、どのように心豊かに生きていくかを、一緒に考え、学んでいく場所である、と、安永師は仰っています。

今回は、GINZAサロンで定期的に開催している「KOKOROアカデミー」という講座の中の「人間死んだらどうなるのか~キリスト教と仏教~」に参加してきました。

浄土真宗とキリスト教

講師は、浄土真宗本願寺派の西原龍哉師と、ここよりファミリーでもある、

キリスト新聞編集長の松谷信司さん。

そして司会は、仏教伝道協会の「あの」増田将之師という豪華メンバーの講座でした。

開始時間を間違え、誰もいないサテライトテンプルで1時間過ごすというアクシデントがありましたが、待っているうちに無事開催されました。

仏教での「死」

最初に話されたのは、「仏教代表」の西原師でした。

お釈迦さまの誕生から出家、そして悟りを得た話から入り、お釈迦さまが「死」をどのように説かれたかを紹介されました。

キサーゴータミーという、子供を亡くしてしまった女性が、お釈迦さまに「この子を生き返らせてください」と頼みにきた話です。

お釈迦さまは「わかった」と言うのですが、それには条件があり、「この村の家のどこかから、『けしの実』をもらってきなさい」と。

そして、その「けしの実」は「一度も死人を出していない家のものじゃないとダメだ」ということなのです。

キサーゴータミーは、村の家を何件も何件もまわりますが、「けしの実」はどこにでもあるものの、「死人を出していない家」の「けしの実」は、どうしても見つかりませんでした。

そこで気づいたのです。

「死人を出していない家などない」、つまり、「死なない人などいない」ということを。

のちの仏教では「死後の世界」が書かれることもありましたが、お釈迦さまは「死後の世界」についてお話されたことはありません。

「死後の世界」について考えるよりも、死者には「死者としての命」があり、その方への感謝を伝えながら「生きていく」のが仏教の考え方である、と西原師は話されました。

キリスト教の「死」

次いで、キリスト新聞の松谷さんのお話がありました。

キリスト教では、「善行を重ねれば天国へ行ける」と長く考えられてきましたが、それが行き過ぎて、「教会に支払うお金で救済を買う」という事態につながってしまいました。

その後
「魂の救いに必要なのは信仰しかない。つまり聖書である」
という考えに立ち戻り、
「プロテスタント」が生まれたということなのです。

「死はしばしの別れだが、天国でまた会える」という意味の讃美歌も多く、それは、浄土宗や浄土真宗でいう「倶会一処」という考え方に似ています。

「天国」は「極楽」と似ているのです。

映画「タイタニック」では、沈みゆく船上で「神のもとに近づくのだから悲しいことではない」という意味の讃美歌が歌われていました。

「タイタニック」のラストシーンが、まさしく「倶会一処」を表していることを思い出しました。

そしてキリスト教でも、「死」は「人知を超えた神の領分」であるとされ、聖書の記述も教会の伝統も明確ではないとされているようです。

地獄の裁きよりも、天国での再会を望む信仰をもとに、生き抜いていくこと。

キリスト教でも「生きる」ことが教えの基本なのです。

結局死んだらどうなるのか

お釈迦さまもキリストさまも、「結局死んだらどうなるのか」については直接語ってはいませんでした。

現在に伝わっている極楽や天国、地獄についての伝承は、後世で付け加えられたものですが、それも「死の不安」を少しでも解消するために、教祖の考えをもとにして伝わってきたことなので、簡単に「ウソだ」と言ってしまうのも、少し違います。

ただ、この世に「死」を経験したことのある人はいないので、現在を生きる宗教者としては「わからない」というのが正直なところです。

死んだあとにどこに行くのかはわかりませんが、生きている私たちにとって、死者は「死者として存在」していることには違いありません。

亡くなった人も、人の心の中に生き続ける。

仏教でもキリスト教でも、そこは変わらないのです。

関連記事

国内初!お墓のテーマパークがオープン「現代墓所墓石テーマパーク」
いま、お寺が「樹木葬」を導入する意義とは? (株)アンカレッジに聞いてきました!
高齢の親御さんをもつ100人に聞きました!「親とマジメな話、できますか?」|「凛咲vol.3」抜粋シリーズ#3
【初開催!】京都伏見『耳祭り』で耳への感謝―健康と平和を祈る特別な一日