松坂大輔がプロでデビューした1999年、私はサラリーマンをしていた。
現場から営業に移り、慣れない仕事に右往左往しながら、
ふらふらと営業車を運転していたある日の夕方、
松坂のデビューのニュースが、カーラジオから流れてきたことを覚えている。
155kmの剛速球で、パ・リーグを代表する打者、
片岡を空振りの三振にとったその時の映像は、今でも語り継がれている。
片岡は、あんな空振りをする打者ではなかったのだ。
松坂の野球人生は、数々の野球人との縁に彩られてきた。
高卒1年目でのデビューは、当時の西武を率いていた、
東尾監督の方針だったろうし、キャッチャーに伊東がいたことも、活躍を後押しした。
イチローとの対戦も思い出深い。
イチローを抑えた試合で「自信が確信に変わりました」と、
堂々と言ってのけた姿に、私も「自分の仕事に自信を持とう」と勇気づけられた。
松坂のプロ人生とともに、私の社会人生活はあった。
WBCで、2度MVPを獲得している。
私がサラリーマンを辞め、僧侶になったのは、
2006年の第1回WBCのテレビ中継を、ほとんど観ることができなかったことも理由のひとつだった。
「これを見られない人生に、意味があるのだろうか」と思い、会社を辞めた。
その後松坂は海を渡り、数年メジャーで活躍したあと、日本へ復帰する。
肩の怪我もあり、ソフトバンク時代はほとんど投げられず、苦しんだ。
僧侶となった私は、目黒の寺院の住職となるなど、忙しくしていた。
好きなドラゴンズは、優勝したにもかかわらず落合監督を解任し、低迷を続けていた。
そんなドラゴンズに、松坂が来ることになった。2018年のこと。
西武時代を知る森繁和監督が直々にテストし、合格を決めたのだ。
これも松坂が引き寄せた縁。
そもそも森監督は、オレ流の落合がドラゴンズに引っ張ってきた男。
こんな風に人の縁は繋がっていく。
松坂がドラゴンズにいたのは、たったの2年。
だが、その間に、数字では表すことのできない多くの財産を残していった。
柳や小笠原、又吉といった若手投手たちが、松坂の影響を受け、成長した。
片岡を空振りさせた、あの弾丸のようなストレートは、
もはや見る影もなくなっていたが、ベテランとなった松坂は、
投球術とマウンド度胸、そして自らの縁によって引き寄せた、強運を武器に戦っていた。
運は、今までに成し遂げてきた縁でできている。
松坂は、自分の野球人生の中で紡いだ様々な縁を、自らの力に変えて、投げぬいた。
野球人生の最後にライオンズに戻ったのも、実に松坂らしいと思う。
プロ人生の始まりを思い出しながら、残り短い時間を噛みしめたかったのだろう。
私はきっと、松坂が活躍した、あのWBCがなかったら、僧侶になっていなかったかもしれない。
その後私も、縁によって導かれ、この「ここより」で仕事するようになった。
繰り返すが、私の社会人生活は「平成の怪物」とともにあった。
松坂はプロ野球を引退するけれど、男の人生はこれからも続いていく。
松坂大輔も佐山拓郎も、このあとも令和を生き抜いていく。
が、このひと区切りに、どうしてもひと言、記しておきたい。
さらば、松坂大輔。
楽しかったよ。ありがとう。
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浄土宗僧侶。ここより編集長。大正大学卒業後、サラリーマン生活を経て、目黒の五百羅漢寺へ転職。2014年より第40世住職を務めていたが現在は退任。ジブリ原作者の父の影響で、サブカルと仏教を融合させた法話を執筆中。