90年代、学生だった私は、「サブカルチャー」にかぶれかけていた。

家の事情で引っ越しをし、小中学校の仲間と離れ、
知らない土地で過ごしていたことが関係しているかもしれない。

していないかもしれない。

元々マイナーな方へ流れる習性はあった。

アンチ巨人だし、
世間で持ち上げられているような事よりも、
誰も行ってないところへ赴いて、
「こっちの方が面白いじゃん」という物を見つけて帰ってくる方が好きだった。

だから、小山田圭吾さんの、あの記事の事も、知っていた。

あの記事が掲載された頃の世間の空気を伝えるのは難しいが、
当時から「趣味の悪い記事」だという位置づけだった事は確か。

だが、「こんな奴もいるのか。どうしようもないな」と思いながらも、
今回のように強くバッシングするまでには至らなかった。

その当時を生きた者として、「あの記事を許容してきた」と思われても仕方がないと思う。

小山田さんのやってきた事は卑劣で非道だし、
世間からのバッシングも当たり前だと思うし、
彼を選んだ人たちも「知らなかった」では済まされない。

本人も含め、委員会も、オリンピック・パラリンピックという世界中の人が注目するイベントに対し、
あまりにも認識が甘かった。

ただ、辞任という形で責任をとり、もうオリンピックとは関係なくなった小山田さんに対する、
さらなる追い打ちや、彼の親族などへのバッシングは、もはや逆いじめだと思っている。

小山田圭吾さんは、これできっと、今後、表舞台で仕事する事は難しくなった。

でも、いつか再出発する時は来る。

裏方としてなのか、
はたまた別の仕事かわからないが、その時は、応援するまでに至らなくても、
せめてバッシングしないであげて欲しいな、とは思う。

以前、坊主バーで「人間には2種類いる」という法話を聴いた。

「罪を犯してしまった人と、これから犯すかもしれない人」。

犯罪というのは、明確な悪意が起こす場合ももちろんだが、
不可抗力や、環境や状況により、どうしてもそうせざるを得なかった場合もある。

そして、人の世で生きている限り、そこに巻き込まれる可能性は、誰にでもある。

今後、何も罪を犯さない、と言い切れる人など、いないのだ。

いじめの被害者にとっては、いじめられた記憶は消えない。

だから小山田さんが再び輝こうとする事に対しても、
ひょっとすると嫌な思いをする人もいるかもしれない。

そういう人は、彼の音楽を聴かなくてもいいし、応援する必要もない。

ただ、そこに贖罪の気持ちが見え、
音楽という芸術とまっすぐに向き合う姿勢を感じ取れるのなら、
見守ってあげて欲しい。

いや、見守る必要もない。

せめて、彼を憂さ晴らしの材料にするのは、やめてあげて欲しい。

小山田圭吾と同じ世紀末を過ごしてきた、サブカルチャーを愛する者として、心からそう思う。

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