ここよりチーフ・エディターの佐山です。

先日、仏教伝道協会が今年から開催している、「週刊法話ステーション」というオンラインの法話会でお話させていただきました。

その時の法話の概要について、掲載許可をいただきましたので、リライトしたものをここで紹介いたします。
テーマは「スポーツ」です。

「スポーツと仏教」というと、まず、スポーツにおける「練習」と仏教の「修行」が結びつきます。

仏教には、「六波羅蜜」という、大事な6つの修行があります。

・布施(惜しむ心をなくし、分け与えること)

・持戒(戒律を守り、行いを正しくすること)

・忍辱(怒りやすい心をおさめ、耐え忍ぶこと)

・精進(怠る心をなくし、努力すること)

・禅定(散りやすい心を静め、心を安定させること)

・智慧(これら5つを総合して行い、暗い心を明るくしていくこと)

この六波羅蜜でいうと、チームプレーの必要な団体競技には「布施」の精神が必要でしょうし、普段の練習には「精進」が必要でしょう。

団体行動には「持戒」も、時には「忍辱」もいりますし、最終的には、心の落ち着きとして「禅定」や「智慧」も必要になります。

厳しい練習の中で実力をつけていき、自分の実力を思い通りに発揮できるようになった人が、一流のアスリートなのでしょう。それはまさしく「修行」と通じます。

浄土宗では「共生(ともいき)」という言葉を大事にしています。

この世は、生きとし生けるものの「縁」の繋がりでできています。現代を生きている同士の横の繋がりも「共生」ですが、遠い祖先から、現在、そしてこれから先の世代へと続く、縦の繋がりも「共生」です。

先に亡くなった人や、未来へ生きる人とも「縁」は繋がっています。亡くなった人を供養する気持ちは故人へ届きますし、次の世代のために、今できることを行うのは、何らかの形で未来へ残るからです。

それぞれの人が、それぞれの役割を果たしながら、共に支えあい、同時代に生きる人はもちろん、未来へと意思を繋いでいくことを「共生」という言葉で表しています。

野球の打者が打つ順番のことを「打線」と呼びます。打者が、ひとつの「線」で繋がっていることを表しているからです。

打線には、それぞれの役割があります。

1番や2番は、塁に出ることが仕事です。

もしも前にランナーがいたら、ひとつでも先の塁に進めることも大事です。

そして、そのランナーをホームへ還すのが、クリーンアップと呼ばれる、3・4・5番です。

下位打線と呼ばれるそれ以降の打者も、上位打線が機能しなかった時には、それぞれの場面で役割を果たさなければなりません。

それぞれが、それぞれの役割を果たして、人と人とが繋がっていくから「打線」なのです。

打線が機能すると点が入るのは、それぞれの打者が、その場でできる最大のことを行って、次の打者のために少しでもいい場面を作ろう、と思っているからです。

「ヒットは打てなくても、せめてランナーを進めよう」
「ファールで粘って、少しでも相手投手を疲れさせよう」などなど。

「送りバント」という作戦を「犠牲バント」と呼ぶことがあります。自分のアウトを犠牲にして、ランナーをひとつ先の塁に進める、という尊い行為だからです。

まさしく、先ほど出てきた「六波羅蜜」の「布施」ではないですか。

自分のアウトという代償を払い、チームが点をとれるように尽くす。「布施」の精神は、スポーツの根本なのです。

団体スポーツは「共生」の心でできています。
個人スポーツだって、他の方々の協力が不可欠です。
練習するグラウンドを整備する人。履いているスパイクを開発した人。

そして、今までに技術を進歩させてきた、偉大な先人たち。

様々な人との「共生」の中で、我々は今、スポーツを行うことができるのです。

人はひとりで生きているのではなく、常に多くの人と関わっています。

現在の横の繋がりも大事にしながら、「過去から未来へと繋がっている『いのち』への共生」についても思いを馳せることで「自分のいのち」についても考えるきっかけとしていただければ、と思います。

今を生きる我々の日常も、縁によって生かされながら、共に生きることで回っていきます。

「共生」を意識することで、皆さまのスポーツライフがより充実するよう、願っております。

週刊法話ステーション
https://www.bdk.or.jp/houwa_station/

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