会葬礼状に「お清めの塩」の小袋が添えてあることがあります。
これは通夜や葬儀から自宅へ帰宅し、家の中へ穢れを持ち込まないという理由で、玄関先にてその小袋に入っているお清めの塩を身体にかける。この風習は神仏習合という歴史から、神道の習俗が入ったものです。

神仏習合とは、日本古来の土着の神道と、外来宗教である仏教が混ざり合い、一つの信仰体系として再構成された宗教現象で、奈良時代から始まったとされています。
寺院に神様が祀られたり、神社に附随する寺院が建立されたり、明治時代以前には神社と寺院の区別は明確ではなかったのです。

このような背景から、仏教には色々なかたちで神道の習慣が入り込みました。
また、地域性による民間信仰などから、風習や迷信などが交わり、日本の葬儀のしきたりは多様化してきました。

その他に例として、「枕飾り」として供える一膳飯とそれに突き立てる一本箸、枕元に逆さ立てる屏風、魔よけの「守り刀」、冥途の旅支度とされる「死装束」、三途の川の渡り賃「六文銭」などが知られています。
ところが阿弥陀如来だけに帰依する浄土真宗では、仏教とは無縁の習俗や習慣を否定するため、この様な儀式は一切行いません。「お清めの塩」も同様で、仏教宗派の多くは葬儀の慣習としてこれを容認しているが、浄土真宗は、仏教にそぐわないとして反対。しかし、近年は、他宗派の葬儀においても廃止する傾向にあります。

葬儀や法事において、浄土真宗は習俗や習慣、しきたりに一切とらわれないことから「門徒もの知らず」と揶揄されることがあるが、それは「門徒もの忌み知らず」 すなわち、迷信俗信にとらわれない浄土真宗の門徒の生き方を示した言葉が誤って伝わったものであるとされています。
葬儀において「お清めの塩」を出さないのは、浄土真宗にとって単なる儀式の問題ではなく、教義に関わる深い意味を持っているという事なのです。