『ドラえもん』とは? 〈ドラえもん法話〉

ある日、なにをやってもダメな少年・のび太を立派な大人にする為、未来からネコ型ロボットのドラえもんがやってきた!ドラえもんが取り出す、未来のふしぎな道具を使って2人が起こす笑いや感動を描いた、生活ギャグまんがの決定版。(公式ウェブサイトより転載)
https://dora-world.com/

22世紀からタイムマシンに乗ってやってきたドラえもんは「未来のひみつ道具」を出してのび太を助けてくれます。
はたして今回は・・・?

ドラえもんの「未来のひみつ道具」×仏教のことば「安心」

ドラえもん法話

どこでもドア 〈ドラえもん法話〉

みなさんが、すこしふしぎだけど本当にあったらいいな、と思うひみつ道具はなんでしょうか。
タイムマシン?
スモールライト?
たけコプター?
ほんやくこんにゃく?

ドラえもんの姿とともに描かれることの多い、ピンク色の片開きドア「どこでもドア」。
ドラえもんの歌詞にもあります。
世界旅行に行きたいな、はい、どこでもドア!

コロナ禍が続き、飛行機に乗って海外旅行や新幹線・バスなどに乗って国内旅行へ行きたいな、と思う方は多いでしょう。
もしも、どこでもドアがあったなら。誰かに会うこともなく、行きたい場所へ行くことができるのに。感染リスクも減るでしょう。
感染状況がさらに収束することで、もっと安心して旅に出かけられるようになりたいものです。

安心。
この安心があってこそ、旅行は楽しいものになってくれる。

行く前、帰る場所の安心

たとえば、帰る場所。海外旅行から帰ってきて、そばやうどん、おにぎりや味噌汁といった日本食を食べるとホッとします。
自宅に帰り「ただいま」とつぶやく。実家の匂いをかぐ。旅行から無事帰ってきたんだな、と心の底から思います。

旅行の行く先が安心できる場所か?もしも旅先で新型コロナウィルスに感染をしたら。見知らぬ土地、見知らぬ人ばかりの国で、自分のいのちをながらえることができるだろうか。不安です。
なにもなく帰ってこられたとしても。日本に、自分の家に、もしも火事や空き巣にはいられたら、異変があったら、休まるものも休まりませんでしょう。
やはり、旅行先の安心も大切ではありますが、出発点、そして帰ってくる場所。いまの「居場所」の確かさがなければ旅立つことは難しい。

物理的な移動の旅行だけではありません。新しい職場、学校で進級したつぎのクラス、知らないグループ、難しいチャレンジ。いまの「居場所」の確かさがなければ旅立つことは難しいかもしれません。

ここにいていいんだよ。
そう言ってくれる友人やパートナー、家族はいますでしょうか。

神や仏、故人の前では、わたしたちは、ただひとりの人間として向き合うことになります。
つまり、お寺とは、会社の肩書きといったもの抜きでのお付き合いです。世間から出た場所とも言えるでしょう。

坐禅会や法話会、当寺であればボードゲームやけん玉を遊ぶ会もそうです。
ただの地域に住む人。ただの坐禅をしたい人。ただお茶を飲みにきた人。
それでいい。
サービスへの対価を払ったのだから、ここにいていい・・ではない、ここにいていいんだよ、がお寺にあります。

こころの安らぐ場所とは「居場所」であり、家、学校、会社、さまざまな場所にあるでしょう。
人生というマラソンを走る私たちにとって、途中途中の休息地は必要です。休んで、ふう頑張るか!と出発できる休息地。
さまざまな地域、属性に、「居場所」を持っておくといいのかもしれません。

出発地点、居場所の確かさ、安心できる場所。この確かさは、わたしたちの人生を豊かなものにしてくれることでしょう。
そのひとつにお寺も加えていただけたら何よりです。

心の底からの安らぎ、安心。この「安心(仏教では、あんじん、と読みます)」を得ていただくことこそ、仏教の求める真理なのだとわたしは受け止めています。

“わたしの”どこでもドアの設置点をみれば、安心がどこにあるかわかる?

こちら側のドアをあければ、向こう側にドアがあらわれ、どこにでも行ける「どこでもドア」。
お話によって設定がブレることをご存知でしょうか。

とあるお話では、どこでもドアを使うときに、いまどこの国のどこの地域にいるのか分かっていないと使えない、という設定があります。
出発地点、居場所の確かさが明らかではないとき、どこでもドアが使えないのです。

とあるお話では、どこでもドアを使ったあとに放置されているドアが、変なドアだな!と燃やされてしまい帰れなくなる、という設定があります。
帰ってくる場所、居場所の確かさが明らかではないとき、どこでもドアは使えないのです。

居場所の確かさがなければ、安心して出かけられないのが「どこでもドア」です。

わたしたちは、そんなどこでもドアがなくとも、どこかへ行くことができます。
格安航空券や旅行会社のウェブサイトにてパッとインターネットで予約する。民泊を利用する。
電車に乗る。自動車やバイクで遠出する。船にのって世界一周。
新しい職場、学校で進級したつぎのクラス、知らないグループ、難しいチャレンジ。
行こうと思えば、どこへでも行けるのです。
どこでもドアのように瞬時に、とはいきませんが、居場所から出かけることができる、帰ってこられる。

いやむしろ、わたしたちは実は、すでに、どこでもドアを持っている、と言っていいのかもしれません。
“わたしの”どこでもドアは、人によっていろいろあるのでしょう。
その、“わたしの”どこでもドアの設置点を見つめてみませんか。

居場所の確かさがなければ、安心して出かけられないどこでもドアのように。わたしたちは、「居場所」の確かさが不安定であれば、怒りに惑わされ続け、愚痴蒙昧に悩みされ続け、むさぼりに振り回され続けてしまう。

たとえば格安海外旅行。
いままで海外旅行を楽しく行くことができていた。日頃のストレスを海外旅行で発散していた。
その海外旅行とは、ほんとうに行きたかったこと、なのでしょうか?
たしかにストレス発散や、ちょっとした特別感を得られる。なにかを成した気持ちになる。
しかしそれは、「居場所」の確かさを、見ないふりをしている行為だったかもしれません。

どこでもドアとは、わたしたちの、新しいことへチャレンジできる可能性を見せてくれているのではないでしょうか。
わたしたちのなかにある、行きたい場所にほんとうは行ける潜在力を表してくれているのではないでしょうか。
「居場所」が与えてくれる力。「安心(あんじん)」のみなもと。
ここを見つめたい。

心の底からの安らぎ、安心。この「安心(あんじん)」の基礎を、見つめる行いが、お寺の世界でいうならば仏道修行であり、坐禅や念仏礼拝、聞法による気づき、であろうと思うのです。

関連記事

涅槃図に出会う:新作お寺ボードゲーム『おえかきネハンズ』クラウドファンディングに挑戦中!
【ドラえもん法話】ほんとうにソレ欲しかったの?【ひみつ道具「未来小切手帳」】