自死について、私たちが伝えられること

有名人の自死のニュースが相次いでいます。
報道されてしまうため、芸能界の自死者が目立ちますが、コロナ禍の影響か、日本の自死者の数自体が、昨年から増加に転じています。
報道に影響を受けた方が連鎖的に死を選んでしまう「ウェルテル効果」という現象もよく聞かれます。影響を受けやすい方は、ご自身の体調や心を、じゅうぶんにケアしてください。

勘違いされがちですが、仏教では自死を禁じている訳ではありません。
他の何かのために「捨身(しゃしん)」という布施行為をしたり、重病により苦しんでいた人が、そこから逃れるために自死を選ぶことなどは、禁じていません。
しかし、忘れてはいけないのは、「禁じていない」からといって「勧めている」訳でもない、という事です。

お釈迦さまは「天上天下唯我独尊」と仰っています。「この宇宙の中で、自分自身ほど尊いものはない」という意味です。
「うぬぼれ」や「ひとりよがり」というような意味でとらえられがちですが、本来は「生まれながらに備わっている人間としての尊厳」を表している言葉です。
「人生は苦である」と言ったお釈迦さまですが、なぜ苦しみの中を生きていかねばならないのか。
それは、「人間に生まれたときにしか果たすことのできない、目的がある」からだと言われています。苦しみの「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)」という輪廻から離れ、幸せに満ちた仏の世界へ行く、ということです。

それを果たすのが仏教の最終目的のため、お釈迦さまは、道の半ばでの自死について、「惜しい」「もったいない」というニュアンスでは言及されています。
ですが決して、禁じている訳ではありません。
だから、自死を選ばざるをえないほど苦しんで苦しみぬいた人に対し、「自死は認められていない」とか「自死は悪いこと」だとか外野から言うのは、やめて欲しいのです。
生きていられないほど苦しかった「生」と、今生では誰も経験したことのない「死」との間で悩み、本人が、尊いはずの自分自身が、選んだ道なのです。
そこについて、他の誰かが意見することなど、できないはずです。

亡くなった人を責めることはもちろん、止めることのできなかったまわりの人について、とやかく言うのもやめましょう。
本人自身が悩みに悩んで決めたことですし、何より、まわりの人が一番苦しいのです。

現在、まだ迷いの淵にいて、一歩でも動いたら「死」に傾いてしまいそうな方もいると思います。
そんな方は、立ち止まって、もう一度よく考えてみてください。
人生の中のあらゆる決断、選択の中で、「死」だけは取り返しがつきません。
宗教者として、こんなことを言うのは少し憚られますが、死んだあとのことを知っている人など、誰もいないのです。
ひょっとすると、苦しいはずの今よりも苦しいかもしれないし、感動することもないかもしれないし、美味しいものも食べられないかもしれないし、楽しいこともないかもしれません。
そして何より、今生で縁があったたくさんの人たちと、別れなければならないのです。

「死にたい」と思っている人は、「今から自分がしようとしている決断の先では、それらを失ってしまうかもしれないし、その上に、行った先でも苦しいままかもしれない」と想像してみて欲しいのです。
自分が思っているより、あなたが死んだらまわりは悲しいのだ、と知って欲しいのです。

宗教者としては、これ以上お伝えすることはありません。
だからこの後の文は、宗教者としてではなく、いちファンとしての戯言です。
くれぐれも、僧侶の見解であるとは思わずに、お読みください。

亡くなった人は、三途の川を越えて、閻魔大王からお沙汰を受け、極楽か地獄か、行先が告げられるという伝承があります。
おそらく閻魔のもとで、「生前に何をしてきたか」と問われるのでしょう。
そこでウソをついても仕方がないので、きっとこう答えるのだ、と想像するのです。

「上島竜兵、61歳。代表作、これといってなし」

豆しぼりの手ぬぐいを頭に巻いた、ふんどし一丁の芸人に対し、「どうぞどうぞ」と浄土への道を示す、閻魔の姿が目に浮かびます。
いくら「押すなよ!」と言われても、娑婆の皆で、浄土への道を押してあげたい。
心から、そう思うのです。

ここよりチーフエディター
佐山拓郎 

厚生労働省 相談窓口 まもろうよこころ

https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/

文部科学省 子供のSOSの相談窓口

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/06112210.htm